人生

生,死とは……なんぞや???

別に特定なテーマは無く著作の経験も 無いが想い出したのを
少しでもお役に立てばと願いつつ徐々に書き込みます.

No: 1 生と死
何故自分が生まれて来たのか? 顧みてみたことあるでしょうか? 何故この地に住んで居た一対の人 を父母と選んで生まれたのか? 浩繁な四生六道の中から[人]を、古今、地域、治、乱の世、富、貴, 貧、賎のどれかを、環境の順逆、周りの親戚、朋友、仇敵等々のそれぞれの人生を選んだのは何故でし ょうか? 人間の通性(分別心)では誰を問わずとも良い方が好きで悪い方は嫌い、故に現実のそれ ぞれの人生に百パーセント満足している人はありますまい。
設計、命令者は固より無い、神の思し召しでもない、それは悠遠の昔より積み重なった造因(撒き散ら した煩雑な種子が実って)で現世現実の結果を大自然循環の法則に従って生成したものであります、 怨み言いっても後のまつりです、解脱するには因果を了悟して因果に順応し悪因を創らない、偈に曰く  有情来下種、因地果還生、無情亦無種、無死亦無生。(六祖壇經)
「無情亦無種」の境に達すればしめたもんで「無死亦無生」の域に還られること請け合いです。 では人生の目的、希望は一体何でしょうか?この身体あるが故に患いが大きい、官能を満足せんが為に 金儲けして富裕に、人をこき使う権勢家に等等と欲望には限が無く煩悩と苦労で一生を費やしてしまい、 所得もいつかは他人の手に渡って行くか、消滅する、古来の覇王,富豪今何処に?2005/06/08

あらゆる生物がこの世間に生まれてきた時持参物は何もない、空手でこの世に来たんだ、そして幼き時 から成人に至るまで、教わってきた(押し込められた) 知識(智慧ではない)にはすべて欲が絡まって、占有しないと煩悩が生じる。
人の占有欲はなんでも欲しがり自分のものにして威張る癖(病)がある, 大自然が生物に給与する供養(用)物質は一切平等である、身体を含む一切の物質は宇宙から借用した もので、一時的擁有或は過去に擁有使用権こそあれ永久所有権は無い、衣食住行すべてが宇宙から借用 したもので何一つの私物は無い、使用後悉く宇宙に返還せねばならぬ、占有欲の酷い人が手段を択ばず 我が物とする爲横奪して、身分ある権勢家(政客、やくざみたいな)、金持ち資産家だなんて威張って、 窮乏民群を造っている、人間として恥らうべく又悲しいことだ。
人間は群居動物であるから単独生活は難しい、生活必須品から環境の構築に至るまで、分業して恰も 各自が舞台劇の脚本に応じて演出する配役であるが如く、互いに需要を補足して生活する, 国王,から 一卒、侠客,乞食に至るまで、役を終えて舞台から降りると元の木阿弥に返り、過ぎた舞台劇の内容と は一切関わり無く得るところも無し、死する時は微塵をも携帯出来ない、然らば苦労して手段を尽くし 功名利禄、権勢を獲得して聚財する必要は無かろう、相互に譲り合い分かち合い 助け合ってゆくのが人間としての本分では無かろうか。

世態は善悪を問わず因を創れば大自然循環の法則で必ず結果が生じる、いわゆる[種瓜得瓜、種豆得豆] 瓜の種を植えて豆を収穫出来る筈はない、自業自得である、四季を例にとれば春夏秋冬の流れを結んで 圓とすれば、春は冬の起点で冬の終点は又春に返る、春は冬の起点であり終点でもある、生病老死も同 じことで,生は死の起点で又終点でもある、死の終点は又生の起点であり極めて自然の成り行きに過ぎ ないから死は恐るるに足らず,唯如何に有意義に苦痛なく死ぬるかにある。
人間は生を慶びて死を怖れ悲しむ、泰然と死に対処出来るのは極く稀である、死とは使い古しのマイカー (老体病体)を新車(新生体)に換えるのと同じことです、新車に替えるのはみんな喜ぶ筈で恐れも悲し みも無い、使い古しの身体を捨てるのを恐れ悲しむのは貪生(欲)が爲である、この臭皮嚢(身体) 老いて萎れた身体に対する生への未練と既得利益、権勢、財産、等々への執着によって生ずる貪生即ち 怕死であり、人間の通常病です、これは本来の面目の大自然(心境)に返れば死は至って平常なことで 四季の遷り変わりとは別に変わりは無い、宇宙星系の壊滅新生ともに同じことです。

大自然の運行は無情でありまして太陽を例にしますと日光は万物に善し悪しを問わず遍く照射する、 何がしは好感であるからと云って特別に照射することは出来ない、無情であるから一切平等である。 大自然の運行に情が生じたら宇宙は滅茶苦茶になってしまう、日光の照射は太陽の本分であり又一切 平等である、人間もこの平等心(本分)に返り万事に処すれば居ながらにして極楽浄土、天国である、 死んでからでは極楽浄土、天国へ行く道は無いのは明らかであります。2003/12/14
人の欲は幾ら獲得しても物足りない、天下を我が物にしても尚物足りない通病が抜き取れない からこそ、死を恐れ希望破滅の苦しみ悲しみと絡み合って死に切れない苦痛に虐げられる。 苦痛なく安らかに死ぬには知足の工夫が必須である、知足は不足しない故円満であって、心境が平常 の安らかに復して安祥に死を迎えることが出来るのであります。

人は三才(天地人)の一つであり天地と並んで小天地、小宇宙とも称せられる。
大自然は陰陽循環で万有万物を生育し人は男女の交わりで生命の延續を保っている、古より人身難得と 言われた、何故人身難得かと言えば、生まれの道は四生六道有りてどの路を往くか、又胎卵濕化の浩繁 な族群のどれに入るか判らない、全てそれぞれの業縁に従い陰陽交合中の某一対に感応して結胎する わけだ、人身の得難いところです、運良く業縁に繋がった人と感応して受胎した場合、陰道に射出 された瞬間から輸卵管内の卵子と結合するまで、数億の同胞と駈け比べして運良くゴールインしても 流産、堕胎、難産、夭折,等の難関がある、人身は得難いではないか。珍惜して有意義に生きるべき ではないでしょうか。
さて投胎した性、知、覚、即元神は今後使う身体を縁覚に従って創っていく、そして元気と元精が 出来る、元精は清らかで雑物がなく陽性である故陽関道を循環して元気を旺盛ならしむ、思春期頃から 生理変化で濁精に変わりて各種因子と種子(精虫)を含有し、陰性であるから陰道を入出して後代を 創る、これは生命の代謝延続の功を有するが、他方面では淫欲から罪悪の根源でもある。大自然は全て の生命体に生殖時期を決めてあるが、人間はこれを無視して濫用する、即淫欲ですね、獣性だと謂われて いたが実際獣性は時期に違わずして、人間は時、処構わずいやはや獣よりも野蛮ではないでしょうか。
大自然は生命延続故に生殖の苦悩を忘れさすべくに又とない瞬間ではあるが快感(涅槃,寂滅と同じ境) を与え、淫欲等の悪用にはエイズ、性病などの懲罰を科せられる、慎むべきでしょう。
ここに逆行して濁精を元精に換え煉精化気で元気に戻して煉気化神して元神に返り煉神還虚で虚空の中 に溶け込んで一体となる、天国へ帰る道です。2004/04/21

人は神の子、神は人を神の様に創った(旧約)然り、神は宇宙を創った、人は小宇宙と謂われている、 神の子であるが故に小宇宙を創るのは当たり前でしょう。
何故なれば神の子は知、覚、自性であり、人は帯業往生でこの性には業縁が付き纏い縁熟せば感応して 精子に依附し卵子と結合し業縁に従がって細胞初分裂より幹細胞へと精巧にこの小宇宙(身体)を 創り上げて胎児となり出生して成長し小宇宙(人)が出来てくる、そして出生の瞬間に玄関の通路が 固封され神の子は四大假合が分散するまで体外に遁れることは出来ない。
更に幼少より導入した分別性知識が慾で苦悩を生じ迷路の羊となり苦海から離脱し難いわけです。
苦海から離脱するには修道が唯一の法であることは言うまでもないと想います。2004/05/02

受胎卵子の細胞は一から分裂して二となる一次幹細胞は陰と陽であり松果体が陽で心臓は陰である、 同じように二次幹細胞も順次陰陽相対で分裂し松果体系には自性が知、覚として鎮座し先ず脳下垂体、 眼(心の窓)脳、神経、脊髄、骨骼等の幹細胞を造り、心臓系細胞は五臓(陰)五腑(陽)と筋、肉、皮毛 等の幹細胞を造り陰陽相対に整然と分裂して母体から供給される栄養分を材料として人身の精巧な化学 工場を作っていくのです、神経幹細胞は同時に緊密に各分野と連繋して胎児形成を完成する。 これは漢方医学の陰陽経絡から推定できるものであります。
男女、美醜、強弱、残障、貴賎、富貧、等は業縁の然らしむるところで神の子ではあるが選択の余地は なく因縁に随順してこれを受け入れると苦悩が小さくなる。
又病気(陰陽の平衡が崩れた時)も神の子が癒していく、体内で不足な所要材料を判断してこれを与える のがお医者でこの材料を使って病気を治すのは我がご本尊であってお医者ではない故、人為的な (暴飲暴食等々)病気を作らず規律正しく生活していくのが健康の道であると思います。
身体は四大仮合(要約して土水火風の四要素)で出来ている、死は先ず風(気、呼吸)が逝くと、火 (エネルギー)が消えて冷たくなり次いで水が逝きて(死体の腐爛分解)土に返る(残った固形物) 即借りた物質で出来た使い古しの身体を大自然に返却したに過ぎない、故に悲しむ必要もないわけです、 死は生への転換であり古車と新車との入れ替えと同じことではなかろうか、生死は一体の両面で生は死 を見ることは出来なく死は生を見ることは出来ない、大自然循環の〇から推して生は死の起点で死は生 の終点でまた起点でもある、この際無分別相の一切平等心で生死を観れば極自然で別に不思議なところ はなく悲しみ惜しむことはないものと思います。2004/06/28

大自然即陰陽の盛衰順逆消長!!

陰と陽
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大自然は要約して陰、陽である、陰陽の盛衰、順逆消長が宇宙星系の新生壊滅から地球の万物(生物、 微生物も)に至るまでの生滅を司る、陰陽の運行は圓であって角がない、星系、星体とその運行ルート は全て圓である事実が目の前にある、人間がそれぞれ万事に処する時この圓に従って行けば衝突せず 万事円満で争いが無くなる、易経に曰く、[一陰一陽謂之道]、宇宙萬有そのものが陰性と陽性であり、 磁場、男女、動静、清濁,明暗、善悪、因果、生滅等々相交わりて万事万物が繁殖する、単陰、単陽で は存在出来ない、[孤陰不生 独陽不長]の謂れがある。
釈尊の中道は性(広義の性、Sexも当然含まれる(後述))自性(真我)物には物性、事には事性で もとより名が無い、人間が仮に目じるしとして名づけたもので名称は多い、生物、植物、鉱物ともこの 性が無ければその個性,固有特性はなく"その者に非ず"と言うことになります 2003/12/16

陰陽の順逆消長でその平衡が崩れた時変化が起こる、地球では天候、火山、地震、地殻の変動漂移等、 人間の場合表裏,気血、寒熱、虚実,湿燥(陰陽)の平衡が崩れた時病が生じる、漢方医理ではこの 不平衡を正して平衡に戻せば病が無くなる。 陰があれば陽が生じ、陽が生じれば陰が生じる、善と悪は相対的に生じる、故に悪が無ければ善は存在 しない、一般的善行の裏には報酬、功徳への期待等即ち欲がありこれは相対的な偽善で真の善ではない、 真の善とは真我赤心からの自然行為であってそこには期待も何もない、本分を尽くしたに過ぎない故 いわゆる善や悪が無く、至善であります、悪をしなければ即ち善であり、釈尊曰く、[衆生是佛  佛是衆生]佛と衆生は相対であり、衆生がなければ佛はいない、衆生には衆生知見(昔から代々押し込 められた欲の大きい知識がありこれに執着するから衆生で、衆生知見を棄捨してしまえば即ち佛では ないか、佛が衆生知見を帯びると衆生となるのは当たり前でしょう。2003/12/18

陰陽の消長とは物極則反の理で例えば、富の極致は貧に返り貧のどん底に達すれば又富へと、貧は富へ の始点でありまた富の終点であります、そして富は貧への始点であり亦貧の終点である。 同じ理で無は有でもあり有は無となる、古(いにしえ)に曰く無極而太極、無の極みで太極(有)が 生じる、有とは言うものの無形象であります、無はゼロであって仮に圓(えん)で表示される、無極の 圓は大自然に遍く宇宙を包容し、その大きさには外が無くその小に至っては内が無い、その正体は 無名、無形、無像、無色、無味、無臭、無声、無情、であって摑み処なく、人間の知識や言語、 文字では表現出来ない、言語道断であり古聖人は強いて仮に道と名づけた、[中道,性、佛性、自性 (真の我)]古聖が衆生にこれを教え悟らせるのに苦労したわけだ、生まれつきの盲じゃに色彩を教 えるのと同じく難しかったでしょう。 さて太極は大自然で発生期の微陽を孕む盛陰と発生期の微陰を孕む盛陽を包容して平衡未分裂で宇宙 万有(万事、万物)の生滅はこの太極陰陽の盛衰消長から終始される、人間の知識(欲)から生まれた 統御者のような者はいない、悪党だからと言って懲らしめてやれ、彼の星雲星団が気に喰わんから壊し てしまえ、と言うわけにはいかない、悪党どもは自業自得であり、星団星雲は相対する盛衰順逆消長に よって壊滅新生が演じられる故大自然は一切平等であり萬有万物は互補になっている、動植鉱物も互補 の関係にある、各食物鏈も互補である、人群社会の互補関係を各自が本分としてやればこの浮世が天国 に変わるのではなかろうか、亦天下泰平ではなかろうか、動物世界では族群生命延続の需要で生殖時期 に交合する、腹が空いた時に獲物を猟する、人間は生殖時期であるや否やを問わずSexを乱用する、腹 が空かなくても欲で手段を尽くして屯積する癖があるので争いが絶えない、何故人間族は目覚めないの でしょうか。、、つづく2003/12/23
陰と陽は単独では存在し得ない、単極の磁石があるでしょうか?人造は出来ないし天然品もある筈はない、 此生即彼生、彼滅即此滅、謂わば一体の両面であり、善なくば悪なし、衆生ありて佛あり、佛が無けれ ば衆生は無い、煩悩即菩提、煩悩から離脱せば菩提であり、両端を包容して分別相が無ければ一切平等 の中道ではないか.2004/06/23

前述の如く中道から外れると陰陽の平衡が崩れて「病」が生じる、人間の通病は古昔より伝承教育され て積み込められた知識が六根を駆使して利欲による選択心を形成し主宰のご本尊に代りて行事している、 比較心、差別心、分別心で貪欲強くなんでも好い方を選択する、点数は高く、財産は多く、権勢は大き く、仕事は楽に、給与は高額に、美を好み、食は栄養分高く、好逸悪労、一歩登天をと願っているが その反面をどうするかは考えたことがない、排除された反面が新事物を創りつつあることを知らない、 病「広義の」はここから生じているのを知らない、香、臭を例にとると、芳香は好かれ臭気は嫌われて 生活環境から追放された、結果は昔の農業社会に比べて感冒し易くなって患者が増加してきた事実が目 の前にある、昔は臭気を嗅ぐ機会が多く(都会の糞尿処理、廃棄物腐敗、田畑の施肥や厠の例)現今設 備は無臭気で嗅ぐ機会極少である、臭気の刺激は感冒に対する抵抗体を強く働かしているわけで 一昔 前鼻汁たらしてゴミ溜まりを寒風中薄着で遊んでいる元気な子供たちをよく見かけるが感冒している様 子はないし、病菌感染もしないのは何故でしょうか?
現今物質文明時代の子供たちは、夏はクーラー、冬はストーブに外へは厚着、一面病院の商売は流感、 昔日稀な所謂文明病の医療で大繁盛して大規模な病院が雨後春筍みたいに続々設立されてきたが、病気 は増える一方で減る形跡はない。
大自然は〇(圓)にて象られ循環して已まず、廻り回って還って来る、邂逅は離別の基点であり、取得 は損失の始めである、失敗は成功の母であるが成功も亦失敗の母でもある、すべてが陰陽の盛衰順逆 消長の一こまに過ぎず自然平凡であります、善悪、好き嫌いの分別心を捨ててこれらを包容し多様煩雑 からこの自然平凡に還るのが真の禅です、「禅」の字は「示」と「単」で出来ている、即ち「単一」を 示現するのが禅であるわけです、単一平凡に還ることは赤子の心境に還ることであり、本来の面目、真 の「自己」のご本尊、「観自在」の「自在菩薩」、「仏」に還るのが真禅であり、いながらにして成道 成仏であり身体を離れてからではない。
佛学者は「学佛」しないで経典や道理をわざわざ難しく、信者に分かり難く解釈して所謂「佛学問」を 見せびらかし供養喜捨を絞る現今です、「宗」とは根源でありこれを教えるのが宗教であるが 「本来の面目」を教えたお師匠さんは見かけませんね、悲しきかなぁ宗教界。2005/5/28

宇宙は生命共同体也!!

相互補填
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互補は大自然陰陽の盛衰消長作用の一つです、異性は相吸引し同性は斥けあう、大自然の圓は静態では なく動態である故、ある一点から出発すれば廻って亦原点に返って来る、そこに向心力(引力)と遠心 力が生じて回転軸に両極ができる、向心力と遠心力が平衡すれば安定して軌道が成立する、この二つの 力には相対したエネルギーが生じ、宇宙星系の生成壊滅を促す根源であります。
相対する力、 エネルギー、生成された物質等は互補の関係にあるわけです、不適応のものは淘汰され適応する者が残る、 統率者、指揮者は勿論無い、それぞれが本分使命(理と性)を忠実に果したに過ぎない、功労や過失も なく当然賞、罰も無い。
自然生態も同様でありまして食物鏈の如く生体維持の需要で獲物を狩猟するのは罪悪にはならない、 供給源として猟殺されて喰われる方もこれを恨む報復と言うことはない、需要供給が平衡を保てばこの 生態食物鏈は安定して延續する。
某植物がなくなればこの植物に頼る動物(虫類,バクテリヤも含 まれる)が絶滅する、そしてこの絶滅した動物を需要とする動物が亦消滅される、やがてこの生態食物 鏈が消えてしまう。
森林が伐採されて禿山となれば洪水と水源の枯渇、更に生態環境が消滅する、 このように互補関連は人間と息息相関にして人間生活の安全安定性が脅かされるのは明らかであります。
蟻、蜜蜂の例でわかる様に女王蜂は統御や司令者ではなく、下代の生殖が任務です、分業された築巣、 保育、花密偵察、採密、警戒防備等職務の遂行には司令や指揮監督はないが秩序正しく運営されている、 これも使命を本分として忠実に執行されている以外に報酬など無い、人間社会はこれと違い統御、指揮 監督があって賞罰が伴い、自私性公平性などの問題が生じるのは何故だろうか。
、、2003/12/25 宇宙萬有は互いに関連しあい循環の法則で万物生命の延續が保持されている、星系から一微塵に至るま で有害無益と言う者はない。人類は古昔がら頭脳に押し込まれた知識(自私心が強い)によって設定 された欲(分裂心、選択心、比較心、猜疑心、嫉妬心、占有心、排他心)潜在意識、観念等を以って萬有 万物の個々に対する見方は、一切平等の原則からかなり掛け離れている、所謂人情の常じゃな、この 見解に依り人類に対して有害と認められた物質(動植鉱物)は方法を尽くして共存の世界より消滅させ ようとしている、これは宇宙萬有と我々人間とは生命共同体であることを忘れたか、或は認識して いないからであります。

人間の貪欲が形成したのが

利害得失
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利は害の始まりであります、得して悦ぶのは人情の常であるがやがて失の果が待っているのを忘れては いけない、地球上で某細菌或は虫類が有害無益と認定されても、彼は大自然の一員であって、各々の 特性個性で循環の使命を果たしているわけでその本分を尽くしている、これが消滅されると循環の一齣 が欠けて又この一齣に依存する系統も消滅してしまうそして又……斯して某循環系統が死滅してしまう、 生態環境が一変するわけです、害の裏に益ありで人類がこの生態に干渉しなければ害ではなく むしろ益でしょう、、2004/01/07 では有益と人類が認定したものは?有益の裏は損害であります、例を幾つか挙げて見ましょう、石油は 人類にとって無くてはならない動力源、薪にかわっての熱源確かに有益だが用量に比例した炭酸ガスが 地上に温室を作った故、平均気温が上昇して海面水温が高くなり蒸発量の増加で大水害を引き起こして いる、フレオンガスは厖大な数のクーラーに用いられ、その回収漏れ量が空中に逸出してオーゾン層を 破壊し危険強度の紫外線を地上へと、過去は日光浴を健康法として提唱したが今如何?益よりも損が大 である、オーゾン層の埋めなおしは何時になるやら?原子力の開発は地下埋蔵エネルギー源の代用とし て評価が大きいがその裏に巨大な破壊力がある、政治野心家はこれを原爆核爆の如き巨大な殺人工具と して無辜の人達を殺して平気でいる、真の悪魔と言っても過言ではないだろう。 宗教は世間に有益面を大きく見せているがその反面にある害も大である、因みに宗教とは?宗とは元、 根本、本来、つまり本来の面目道徳を教えるのが宗教である、宗教も同じ様に古来から政治野心家に 悪用され己の権力を維持擴大する爲に神の威権を利用して異見者を誅戮し人民を砲火に曝して尚 飽き足らない。…… 2004/01/09
現在の宗教は少数を除き殆んどが収入の爲に幸せ祈願、厄払い等等の迷信観念を信者に植え付けている のは宗教の本旨に背くのではないか、誤人子弟も甚だしいと想います、開祖聖人は後世の弟子たちが 邪道外道に嵌りこんで折角残した教え正道を歩まないのに落嘆落涙せざるを得ないだろう。 開祖聖人は財産を捨てて修道に励み成道している、釈尊は三衣一鉢が総財産であった、現今の所謂 有徳高僧は華麗宮殿みたいな寺院におさまり舶来乗用車を脚として、慈眉善目、軽声細説、ところが 痛い処をチクリ刺されると無明火起こりて怒気衝天、、ほんとに修行してるのかなぁ。2004/01/12

団体化された宗教がもたらす弊害は少なくない。 古来から修道は個人的であります、身内の衆生(衆生知見、欲を帯びた知識、心、)を渡尽而して本来 の面目に還り、以って世人を感化して娑婆世界の苦海を平等極楽浄土に返すのが本分である。 宗教の団体化は正道,正法を弁えずに他教、他宗を排斥し、内部の名利、権勢を争う機会を造り、信徒 には祈福、厄払い、金儲けを容易に、等々の迷信邪見を植え付け、供養金を絞るのが現状であると 言っても過言ではないでしょう、これでは争いが絶えず、平等博愛をモットーとする宗教間に戦争 (昔の十字軍から現今の中東)が起こるのは必然的ではなかろうか。2004/03/11

寺院が大きいほど社会に対する弊害も大きい。 広大華麗な寺院を見れば娑婆世界の家庭生活や団体生活をそのまま寺院に持ち込み同じように厖大な 維持費を稼ぐために法会、祈願、厄払い、托鉢等々手段を尽くして金儲けに尽力、そして地位、権勢、 好逸悪労、他宗派を浅はかな一知半解で排斥こんな出家衆に修行が出来る筈はない、寺院多かれば 生産力無き出家衆も多くこれを供養するために社会資本を浪費する、修道は在家修でも成就する、 菩薩行は在家修行ではないか!!
菩薩行は利他を先行とし利己を後に修行している、出家羅漢は 先利己で先に修行成就してのち法施で利他してその供養に報うる、菩薩行は先に出家の羅漢を供養 してその修行に後顧の憂いをなくし羅漢が専心修行できるように支援すると同時に社会教化や救急等 主に財施で我欲を捨てるにある、勿論無住相でそこに報いや功徳等を期待することはなく本分, 義務であります。 大寺院の出家衆は寺院の雑務と募金で時間をとられて修行どころか住持方丈や他の地位の獲得に懸命 では施主の供養を受けるに恥らうべきではないか。2004/10/18

逆行倒施、返本還元、還我本来の面目

河洛文化と理数
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当然この荒れ果てた現世界を救うのはやっぱり宗教です、それには正道に正確な信仰、古聖人の教え を実践すれば、全てが救われるのは間違いないが、道なるものは攫み所なく、表現しがたく勿論 言語で言い表すことも出来ない。
東亜の河洛文化はこの点を判りやすく解明できるきずなだと想います、黄帝(五千余年前、陰陽八卦 発明のずっと後)の頃[倉頡]が結繩から符号を書く方式を考え世人の需要記録、通信を容易にする 爲に造字した、これが漢字でありまして河洛語音、所謂漢語音で清朝に編纂された康煕字典の語音は これと同様であります、終戦前の漢和、和漢字典の読音もこの漢語音でした、漢字の日本語音読は 漢語音の変音法則に依る発音で漢音が分れば日本讀音が判明する日本語読音が分れば漢語読音が分る 相互関係があるのは言うまでもない、河洛音は漢語音で現在福建のアモイ、台湾と大多数の華僑は この漢語音であります。
[倉頡]が造字の際に道理玄機を隠蔵した多数な字と格言、熟語があり後世の人々にこのような字、 句から道理を悟らせようとの有難い心遣いでありました。これらは北京語音では表現できなく漢語音 で出来た語句であるゆえです.2004/02/14

ある和尚さん(年代と称号はわすれた)が天竺に留学し学を終えて帰還した時に経典を白馬で運んで 某寺に落着き、経典の翻訳に尽くした、後この寺を白馬寺と呼称された、この和尚さんを慕って来た 人が[永年天竺に留学して得たのは何でしょうか]と問うた、和尚さんは[初めて目は平に鼻は縦に あることを知り得た]と答えた、言うまでも無く両眼と鼻の縦横を結ぶと十(経緯)となる、所謂 十字架です、吾人が前後、左右、上下を弁えるのはここを基点とする、この十字のセンターを玄関 つぼと謂う、吾人の表玄関である、[真の我]が投胎して出生する瞬間に玄関の通路が大自然の法則 で固封されて現実の身体から出ることは出来なく、総元締めの知、覚がこれであり、徐徐に知識が 導入されて物心が付いてくると幼児の表情が表れてくる、玄関の奥には身体内の精巧精密な物理、 化学工場の総コントローラーの脳下垂体があり、身体を車に例えれば、玄関つぼは操縦席で[真の我] がドライバーで良い平坦な道か悪しき道を行くかはこのドライバーの自然平等心で走行する故真の我 、道心、良心がドライブすれば正道を歩み真理光明の道に達し、道心が惻隠されて貪欲が支配する差 別心、嫉妬心、傲慢心、自私心等が代行すると邪道に進み暗黒無明の地獄道へ転落し世の中が暗くなる。 2004/03/01

ここに隠蔵玄機の語句の一つは[紫竹林中観自在、白蓮台上見如来](「見」は「示現」現ると読む) 古来より美人の眉は[紫眉]と美称され、鼻は五行西方の金に属しその色は白であり蓮は汚泥より出 で汚染されず清らかである、紫竹林(雙眉)中の両眼と白蓮を結ぶと十の字となりこの[中]に封じ 込まれた[真我]の在り処をあきらかに指示してるのではないかな?正法眼蔵ではないか?

古来伝道は不伝六耳と言われ一脈単伝であった、現世代は午会過半で大道普伝の時代に入った、故に 千古秘聞の道法が弘められている。
午会とは?暦日です、紀元五千何年か忘れたが五千年前より伝承された暦日の整数構成を一覧表に まとめて参考に掲載します。
現今一日は二十四時間制、昔は十二時辰、一時辰は地球の自転三十度です、この三十、 十二が暦日の循環数字です。
元、会、運、世、年、月、日、時辰の九項目です、一元は129600年にあたります
1元=12会、 1会=30運、1運=12世、1世=30年、1年=12月、1月=30日、1日=12時辰=地球自転360度、 1時辰=地球自転30度、一年は365日… その端数を積み陰暦には潤月、陽暦には潤年で 補っている.

前述の如く古来不二法門の道に逢うのは実に難しかったが古聖人は字の構成の中に悟覚の糸口を 残しているのは有難い心遣いでした。
まあ厳粛な面より離れ、他の角度から[道]?なるもの を覗いて見ませう.
道は路であり大自然宇宙の循環法則の中枢で修道はこの大自然(一切無分別相)に返る過程である、 自性即是道、故に大自然であり、あらゆる物事を抱擁して差別がない、無形、無情、無名であります, 修道はすべてを包容し分別心なく容納する赤心の自然に返れば大道と溶融する路でありましょう, 上天下地唯我独尊、釈尊誕生時におっしゃられたと言うのは伝道伝教の方便で神化聖化された ものであり、(ここの我は[真の我]佛性、自性である)釈尊も我々と同じく男女交合にて結胎 し同じように陰道から出てきたもんじゃ、したがって成仏成道、極楽浄土は教えを実践すれば、 いながらにしてであり、死んでからではない筈です。
経典は修道の路しるべであり修道の過程を教え、これを実践して成仏成道するにある。死人に経 をあげても応えない、亦用をなさないのが実情であります。2004/03/28

一陰一陽謂之道、一呼一吸もまた道である、大宇宙もちゃーんと呼吸している、その周期は何億 光年か判らない、呼吸が止まってからでは修道することは出来ない のは明らかであります、イエス曰く自分の十字架を背負って[我]につづけ、然らば救われると!! 十字架とは前述の十字架[我]とは[真の我][自性][佛性]でありまして(イエスではなく) 此れによって救われるのであり、イエスさまが教えて下さった弦外の音を悟覚して実践するので あって、イエスさまに頼るのでは、救われないのは明らかです、修道は固より自性自渡、自救、 自修で、他力に頼ることは出来ない、他人が飯を食べて自分が飽腹する筈がなく、自分の病気を 他人が代りにしてやると云うことは出来ないのと同じことです。 2004/03/30

[倉頡]造字は道から河図、洛書、陰陽五行、万象等を基礎としている、修道の道とは?孔子 曰く[吾道一予以貫之]と、道は[一]である故に、人得一則[大]、大得一爲[天](広義の 天、大自然宇宙)未有天地先有道で無始又無終、悠遠故に古道と言われた、口の上に十は[古] と言い、エデンの園、極楽浄土に返る古道であります、(十は人の玄関、十字架。方寸地、心地 (しんじ)(五行 の土に属し)、良心、真の我、自性、本来から倶有せる佛性である、土得一謂王、したがって 性王とも謂われる、修道はこの十 字架から[應無所住而生其心]を悟覚し[率性之謂道]を実践して菩薩行を圓満せしむるにある。 道の字は[首を以って行する]首は一の上に二点(両眼)中点に[自]性、則真我で行くのが道 であるわけです、自性良心で行けないのは迷いから抜けられない故です、[迷]とはかんじんの 佛性良心の[十]の周りが酒色財気の「四点」に囲まれて歩き目覚めないで「名利淫私」の営み に没頭し、真理へ返る道上で道草喰って「迷」うわけですね。2004/04/04
只管坐れ、坐禅して悟性と教えられた、五大宗教の要旨は、儒=存心養性執中貫一, 佛=明心見性萬法帰一、道=修心煉性抱元守一、キリスト=洗心移性黙祷親一、回=堅心定性 清真返一で異なるところなく[一]は大道,道心、佛性、真我を悟覚して返虚するに至らしむる にある、[一]は単一、平凡に返り始めて一切平等である、禅は[単を示し]平凡に返り、坐は [両人坐一土]土は[方寸土]五行の中央戊己土、五常の[信]に当たり、良心,道心、悟道の 法門でもあります、 道は十万八千あり門は唯一、不二法門である、彼岸はこの不二法門以外では到達出来ません。 2004/04/10
漢語で無職のことを無頭路と言う、職捜しを捜頭路、就職は食頭路と言われる、頭路とは古道を 指し道を捜せとの暗示に外ならず。
昔から顔面には五官があり、感官は眼、鼻、耳、口で四官しかない、もう一官は?顔面に七孔 八竅あると謂うが七孔とは眼が二つ耳も二つ鼻二つ口一つ合わせて七つの孔がある、では第八の 竅(きょう、あな、極微な孔)は顔の何処に?其の位置は両眼の緯線と鼻柱の経線が交わった ところに竅があり、この第五官を玄関竅と謂いこの奥に御本尊の神の子が鎮座している、五行の 戊己土に属する故方寸地、寸土とも謂う、十字架とも謂う、鼻の上方の頂点にあるから霊山塔, 鼻は鼾をかくから十字点を雷音寺とも云われた、目(二つある)に一点が[自]で陽の戊土に 属して(自性)を示し、これに陰の己土(身体)を合わせれば[自己]というのが成立する。…… ここクリックして
万物は総べてこの中心があり四維上下はここから弁えられる、修道はこの点から、 観自在して無住相の心なる 本来の面目、道心、仏性、自性佛が悟られば五蘊皆空の境に達し一切の苦厄から離脱するのではないか。 自[在]は一人在[土](十字の中点戊己土)であり、自性はもとより自在菩薩であるから 自ずから五蘊皆空で一切圓満であるわけです。儒曰く、天命之謂性、率性之謂道と、故に自性 (道心)で万事万物に対応(無住相、無分別心にて)すれば苦悩より離脱し無憂自在ではない でしようか、 ご本尊の自在菩薩は此処に、観自在はここから!です。2004/05/08

俚語(俗語)に曰く:一二三四五、二人坐一土,了悟其中意、西方做佛祖。
註:河図の数:一=北、二=南、三=東、四=西、五=中央
五行の概要を帰納した表をご参考に、 五行図解をクリック(エンコード=EUC)2004/06/01
土は中央にあって色は黄色、味は甘、信を示す。人無信不立、信とは自信、信用、信頼、信仰、 信念強いのは難しい事であってもやり遂げられる。
大自然そのものが信である、自然の循環万有の運行は信であり無情である、無情でこそ差別なく 一切平等に公平である。
分別心が出ると私欲に惑わされて物足らず(不知足)に苦痛煩悩 から抜けられない、心を持ち直して虚心知足で楽しく暮らして行く、天下泰平でしょう。
谷神不死(道徳経)谷の字は顔面の二目に鼻側の八の字線その下に口、これ谷です八の字線の 起点は二目の中央即十字架の点のなかに真我、自分のご本尊、固より名称なく強いて知、覚、 性、神、道と様様に名づけられている、この[谷]神が人間の通性(分裂心相対の差別比較心) 即ち衆生知見を帯びると「俗」気になり[谷]神の清静なる光が俗なる雲に遮られて「惻隠」する、 「谷」が「人」間の通性に染められて出来た「俗」気な「人」を喜捨したらば不死の「谷神」 に還元するのが修道であります2004/9/16

修道を呼びかけ伝承されて唄われている歌があります、、
「佛在霊山莫遠求 霊山只在我心頭 人々有個霊山塔 好向霊山塔下修」
簡単に説明しますと、佛は霊山にいらして遠きに求むるのではない、霊山はただただ我が心頭 に在るのみ、人々にはそれぞれの霊山塔があり、その霊山塔のもとで修道すれば好いのじゃと。 即ち佛様は我が心頭(方寸の地)の霊山にいらしゃる故遠くに求めるのではなく、霊山は先に 述べた十字架です、顔面で高いのは鼻でこれを山とせば佛性が鎮座しているから十字架は霊山塔 であって、寸土、寸心とも謂う、この[寸と土]が修道場の「寺」であり霊山の塔でありましょう。 2004/10/18

煩悩で心が落ち着かないことを昔から「方寸」乱れと言った、心臓は{方寸心}ではない筈です 、十字架、玄関から奥に方寸大で心臓様な形をした腺体があってこれが中央戊己の土と謂い 「自己」ご本尊はここに鎮座しているわけであります
俚諺に「入土為安」という語句がある、一般には死去したら速く土に埋めて安んずることは孝で あると解釈しているが、これは誤りで真の意義ではない。
真義は?「入土為安」は歴代先祖が一人でもいいから子孫が成道成仏すれば九玄七祖尽く超昇 すると信じて残された俚諺でありまして「土」の中に「子」がある「孝」の字です、古道寸土 にある子(自性)を覚まし(悟り)修道して成仏成道せば大孝であると謂うことです。
俚諺「人生海海、不得不失了、要緊找頭路」一般的に「世渡りは当り障りなく要領よく、緊要 なのは職を探し就職して安定に生活する」であるがその真意は「人生は大まかに大海のごとく 好しあしを択ばず入、出、去、来を拒まず、得る処なければ失う処はなし、緊要なのは頭路 (頭の路は古道)を探して修道して成道成仏せよ!」と謂うことであります。2004/11/24

人生は何故苦悩が付き纏うか、「苦」の字は「古」の上に「草」で出来ている、古は古道であり、 古道に雑草が生えてスムースに歩けない故に苦悩が生じる、綺麗に除草(修道、修心、修行)し たらば極楽浄土で苦悩はない、万法由心生、万法由心滅。ではないか? 心図解をクリックして見れば判って来ると思います。05/4/12 0時58分

修道は先ず修身から始まる、修身するには心を正し、即ち修心を基にし、正心の主要は誠意に ある(大学之道)、「まごころ」を始終間断無く保持(二六時中)して万象に対処すれば自然に 身が修まる、誠意は大自然の真理法則を了悟しこれに順応すればよい訳です、一心一意を以て 修行を貫徹していけば成道は近いでしょう。
「三心両意事不成」と古から戒めがある、自性は心の反面で善し悪しが無く中性で思想も無い、 良心「天良」道心とも謂れ、この世に来てから家庭、学校、社会より教えられ導入された知識 で出来た要約して「識心」「善悪心」が本来の「天良」を無視して主宰を代行して善いもの ばかり選択し、点数は高く、財は多く、地位身分は高く、権勢は大きく、相対の反面を知らない、 故古道に雑草茨などがしげり苦悩が生じて故郷のエデンの楽園に帰れない、ご本尊の良心が 惻隠されてしまっている、この意見なしの「惻隠の心」が終始顕現しておれば現世にて佛光普照 して、如来であり佛である、善し悪しの二心と本来の中性天良の心を三心と謂い、両意とは 「する」意と「しない」意を合して二意と謂う、自性→三心→三心二意「1→3→5」陽の奇数 で、陰の偶数は対立的であるから勝負がつかず紛争が絶えない、現実社会も奇数を採用して物事 を決める、議員、会社団体の役員等すべて奇数であるのはこの数理を引用したもので決議が 同数の場合は議長、主席の一存で決まるように出来ている。多数繁雑から単一に還るのが古道 を平坦に除草したのと同じことで真の襌でもある。05/4/27 0時49分

世の中で一番重いものは何でしょう? 鉛水銀ではない、それは「愛」です、人間の 愛とは欲の絡んだ愛故に占有したがりそこから煩悩が生じて罪をも犯す、天国地獄があると すれば愛欲が大きく強い程身が重いわけで地獄へ沈み込み、微塵の愛欲をも棄捨してしまえば 身は軽くて浮かび天国へ上昇するのは当然のことです。「愛」と言う字は「必」ず「受」ける を合して出来ている、愛が嫌いで受けないと云う人はいない筈だ、愛は受けるよりも逆に愛を 施せば極楽浄土へ還る古道に歩みこんだわけで成道成仏は近い、愛の出し惜しみは中に潜んだ 欲がつよくて利己的であるから煩悩から離脱出来ない、 故に愛から欲を抜き捨ててあらゆる 世人にこの「愛」を施捨してしまへば娑婆の世が目の前で天国に変わり身が軽くなり「エデン」 の故園へ錦を飾って還るのは喜ばしきものなり。05/6/19 1時15分

古聖垂教の究極は吾人に平等博愛の真理、道を悟得さすべく苦口婆心を尽くしてあらゆる分野 角度より繰り返し繰り返しクドクドと説法なされた(残されてきた経典)が、この道、真理は 無形像、無味無臭、視して見えず、聴而不聞、である故言語文字では表現出来ない、文字言語 で表せるものは道、真理ではない訳です、所謂「言語道断」であります、 説法は事物の例を挙げてその伝える真の意を汲み出し、ここから「無字真経」の真理、道を悟 覚させる為にこの見えない、聴けない、觸れられない、攫められない「道の正体」(固より無 名で古聖先賢が仮説、仮に名づけた名称)を吾人に教え、悟らせる困難至極な説法は、生れつき の盲じゃに光線色彩を納得させるのと同様に難しいのを厭わず懇切に隈なく例を挙げて説法なさ れた。
古来伝道は不伝六耳と言われ一脈単伝であった、現世代は午会過半で大道普伝の時代に入った、 故に千古秘聞の道法が弘められている。
その道場がお寺であり(寺の字は寸と土)無字真経はここにある、自分の十字架の方寸地に鎮座 せるご本尊、真の我、性、自性、道,道心、ここから観自在菩薩の工夫に精進して有するすべて の「物、心物」を放下して無一物無所得に至らば「行深般若波羅蜜多時」に成りて五蘊皆空では ないか。 06/6/17 22時42分
「心物」とは赤子の心が成長につれて家庭、社会等の環境から習得した知識経験に染められて 当初の清浄円満な道心が惻隠されてしまい、欲、知識を抱えた人心、識心が道心を代行して霊山におさ まって、行者はこの欲、知識、邪見、我相、執着心などの「物」を悉く喜捨してしまえば 本来の道心に還れる。霊山の心(人心と道心は一体の両面)にて観自在して無住相無我の「行深 般若波羅蜜多時」に至れば自在菩薩現じて「佛光普照」です。この身あるうちに修道しましょう。 6/21/2006 5:11 PM

性とは?

性とは? 大道は無形であって天地を生育している、無情にて日月(陰陽、歳月)を運行している、無名(功名利、 報酬なし)にて万物を長養している。もとよりその名は知れないが強いて道と名づけた。(清静経)
道の大は外が無く(無限大)その微小は内が無く(無限小)宇宙自然に充満して、その名も強いて 「性」と名付けられた。宇宙万象万物のそれぞれには必然的に「性」が主宰している。故に佛には 「佛性」人は「自性、人性」物には「物性」広汎な動植鉱物の性があり、その「性」が無かったら もうその物ではないと言うことになる。微塵、単細胞、超微粒子等にも性を欠けたものがない。
  性は無始劫の悠遠な昔から絡み付いた劫縁と大自然の法則で数多の小宇宙を創造して来た。 例えば性動じて陽核と電子を結合させて水素、酸素ができて(陽核、電子にはもとよりその性がある) そこに水を造る縁を帯びた性が水素原子と酸素原子を結合させて水分子を造り、水の性状 性質等を呈する「水」なる物質ができるわけです。この「性」が水のうちから出てしまうと「水」 と言う物がなくなって存在しない、性が出て行くと水は分裂して夫々性状、性質が違う水素と酸素と に分れて各々の特性を表現する.従って性は自分がこしらえた創造物が壊れて分解するまでこの 創造体に封じ込められて外へは逃れられない。

  「性」はもとより無住相で無限大且つ無限小であるが、万象万物に陥った「性」が万有を ドライヴして安定に生生不息に循環し、各々のドライバー席からは前後、左右、上下が判別される。 人間では劫縁が絡まった「自性」が、機縁の熟した環境、相手方に今生に使うべき様式の體を母体 から供給される四大要素(土、水、火、風)を使ってこの精巧な物理化学工場(體、小宇宙)を造る、 完璧か五不全かは縁によって自分で造り、選択の余地はない。 性の字は左からみれば「心が生まれる」右から見れば「心を生む」。性の正体は?吾人の御本尊、 主人公はどんなもの?悟って初めてハアーこれかと納得了悟です。「悟」の字は左から「心の中の吾」 右からは「吾が心」が分かると性が現れて来るでしょう。
  性と心は一体の両面であり、心には慾があって思考するが、性は思考せずに痛みかゆみを知り、 創立した物理化学工場(身体)を運営している。
  心清ければ性現る、「明心見性」即ち、「心明徹なれば性現る」知識を以て悟性、悟道は出来得 ないが、知識を基礎として弦外の音を知るのは近道です。知をもって無知を知るのは難しく、 むしろ知を捨てて無知となれば自然に無知をしるわけではないか。 人の知を喜捨せねば大道の無知には還れない。

禅にて性と心の違いは?
鏡と向かい合った時、もう一人の自分が見える。仕草表情が同じような我であるが、 これは自分の影像で真の我とは違い、自分が悲しみ、憤り、喜び、等に当り、泣き、 怒り、笑い、の形相が映し出されている。影像には心が無く、向っていなければ 影像は跡形無く消えてしまう。影像には七情六欲が無く無心でこれが真心、性であります。 自分の仕草表情は心の執着によって生じたものでこれが輪廻因果を創っている 浮世から離れられない妄心であります。 この妄心から離れれば佛心、佛性で、真の禅は通常で座する時だけにとは限らない。

17:06 2010/02/08
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